<伝統的工芸品として>

「伝統工芸品」と「伝統”的”工芸品」

今日、「伝統工芸品」という言葉はテレビや雑誌・ラジオなどのメディアからよく耳にします。しかし、ご存知でしょうか?「伝統工芸品」と「伝統”的”工芸品」には明確な違いがあります。

まず「伝統工芸品」ですが、長きにわたりその技術や技法などが何らかの独自の基準を持って世代を超えて受け継がれ、且つ現存している工芸品を差します。一般的に日常生活で使われる(使われていた)もので主に手作業で製造されるものを指します。例を挙げるとすれば、岡山県の”備中和紙”や静岡県の”駿河漆器”、東京都の”江戸扇子”など、その品目数は数百を数えます。

対して「伝統”的”工芸品」とは、この伝統工芸品の中でも、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(昭和49年5月25日、法律第57号)」に基づき経済産業大臣から指定を受けたもののことを指します。その基準が「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」の第二条にこう書かれています。

経済産業大臣は、産業構造審議会の意見を聴いて、工芸品であつて次の各号に掲げる要件に該当するものを伝統的工芸品として指定するものとする。
一  主として日常生活の用に供されるものであること。
二  その製造過程の主要部分が手工業的であること。
三  伝統的な技術又は技法により製造されるものであること。
四  伝統的に使用されてきた原材料が主たる原材料として用いられ、製造されるものであること。
五  一定の地域において少なくない数の者がその製造を行い、又はその製造に従事しているものであること。

一度はどこかで見たことのあるこのマーク

は、伝統”的”工芸品にのみ付けることを許されたものになります。

この伝統的工芸品には、青森県の”津軽塗”や秋田県の”大館曲げわっぱ”、滋賀県の”信楽焼”、東京都の”江戸切子”などがあります。もちろん南部鉄器もこの伝統”的”工芸品に指定されています。

 

戦争期からの立て直しと伝統的工芸品への指定

1937年(昭和12年)に起こったの日中戦争の時には、鉄を軍事産業にまわすために統制令が敷かれ鉄瓶や釜などの製造が全面的に禁止となります。全ての南部鉄器の生産者は転廃業を余儀なくされ、同時に工場で手榴弾や砲弾・手榴弾ケースなどの製造に従事することとなり、南部鉄器としての生産は完全にストップしました。また、1941年(昭和16年)に第二次世界大戦が始まると、鉄の代わりにアルミを使って製品を作っていた生産者も材料が枯渇し、それも全面休止となりました。これは第二次世界大戦が終結するまで続きます。
しかし、そんな中でも盛岡南部鉄器では16名、水沢鋳物では6名の鋳物師にのみ年間20個以内の鉄瓶製造が許可されました。そして盛岡ではその16名を保護するために”南部鉄器技術保存会”ができ、その技術と伝統を今に伝えることが出来ました。

終戦後、盛岡南部鉄器も水沢鋳物も技術と伝統がまだ息づいていたため、目覚ましい再起を図ります。それまでの技術と新しく根ざした技術を融合させ、鉄瓶や釜以外の製品の開発にも注力していきました。本格的に”生型”での製造が開始され、さらに手作業で行っていた部分を機械作業にすることにより量産体制が整えられ、現在の南部鉄器の製造手法が確立されたのもこの頃になります。もちろん、伝統の技術による”南部鉄器””南部鉄瓶”は現在でも脈々と受け継がれ、製造されています。

その後、まだ戦後占領期だった日本ですが、”中小企業等協同組合法”に基づき盛岡南部鉄器では1949年(昭和24年)3月1日に今の”南部鉄器協同組合”の前身である”南部鉄瓶商工業協同組合”が設立され、水沢鋳物では1954年(昭和29年)11月に”水沢鋳物工業協同組合”が設立されました。1959年(昭和34年)には、この2つの組合から成る”岩手県南部鉄器協同組合連合会”が発足されました。
これをもって、本来は”伊達仙台藩”の鉄器である水沢鋳物も”南部鉄器”と呼ばれるようになりました。

そして、1975年(昭和50年)2月17日、南部鉄器はついに”伝統的工芸品”に指定されたのです。

 

 


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