<盛岡南部鉄器の歴史>

南部盛岡藩と南部氏

時は江戸時代が始まるちょっと前、現在の岩手県北部〜青森県西部の”南部地方”に勢力を持っていた南部氏が戦国時代を経て、南部盛岡藩の基礎を築きます。そして盛岡に本拠地を置きこれから始まる新時代、今で言うところの”江戸時代”に向け着々と準備を進めていきます。そして、それから数年後”南部利直(なんぶとしなお)”の時に南部盛岡藩が形成され、南部利直は初代藩主となります。しかし、本拠地盛岡の整備は思うように進まず、実際に居城”盛岡城”が完成したのは2代目藩主”南部重直(なんぶしげなお)”の時とされています。ちなみに盛岡城は現在の盛岡市内に建てられ、廃藩置県のあおりを受け明治時代に城内建物が取り壊され石垣を残すのみとなっており、今では”岩手公園”として親しまれています。国の史跡にも指定され、東北随一の美しい石垣を見ることが出来ます。

 

鋳物師と盛岡南部鉄器

盛岡南部鉄器の歴史を紐解く上で欠かせないのが、その礎を築いたとされる”小泉氏”・”鈴木氏”・”有坂氏”・”藤田氏”4つの鋳物師の名前です。この4家はすべて盛岡の出身ではありませんでしたが、南部盛岡藩に召し抱えられ長年を過ごすことになります。
ちなみに、南部盛岡藩の藩主である南部氏の本領は元々甲斐の国(現在の山梨県南巨摩郡南部町)であり、その集落の名前を取って”南部氏”と名乗ったとされています。

有坂氏は南部氏がまだ甲斐の国にいた頃より仕えており、鋳物師4家の中では一番古く南部氏に仕えていました。年代的にその次に南部氏に仕えたとされるのが鈴木氏です。鈴木氏は1600年代中盤に南部盛岡藩の鋳物師として召し抱えられ、主に大砲や鐘などの大型鋳鉄品を作ることを得意としました。そして時を同じくして、後に南部盛岡藩に大きな影響を与える出来事が幕府・南部盛岡藩間で起こります。
儒教に明るく茶道や華道に秀でた文化人であった黒田福岡藩(現在の福岡県)家老の”栗山大善(くりやまだいぜん)”府中藩(現在の長崎県)の僧”方長老”が、幕府より苦言を呈され南部盛岡藩預かりとなりました(今で言うところの「左遷」)。二人はそれぞれ1633年からの19年間、1635年からの23年間を南部盛岡藩で過ごすことになりますが、その間に当時全国的に見ても珍しい「”武”よりも”文”を重んじる」動きが発展していきます。特に茶道について発展したため、茶の湯釜を専門とする鋳物師の必要性が出てきました。そして登場するのが、京都から召し抱えられた釜氏である”小泉氏”です。
小泉氏の働きにより南部盛岡藩の中で茶道文化が急激に発展し、そればかりか藩内で作られた湯釜が幕府や他の藩への贈り物として使われるようになり、この頃から”南部”の名前は広く知られるようになります。
そして1700年代初頭、鍋や釜を多く作り”鍋善”の名で親しまれた”藤田氏”も南部盛岡藩に召し抱えられます。出身は甲斐の国ですがその時には既に達曽部(現在の岩手県遠野市)に居を構えていました。

こうして、4家の鋳物師が南部盛岡藩に集結し南部鉄器の土台が作られ発展していきます。

 

南部盛岡藩主と盛岡南部鉄器

単純に4家の鋳物師が揃ったからといって、もちろんそれだけでの発展などこの時代にはあり得ません。さっきから「召し抱えられる」と言う表現を使っているとおり、南部盛岡藩主つまりお殿様の理解と保護があってこその”発展”があります。特に二代目藩主である”重直(しげなお)”から八代目藩主”利雄(としかつ)”までの七代の間は茶道についての知識が広く理解も深くあったため、茶道の発展にも大きな影響を与えました。ちなみに三代目は”重信(しげのぶ)”、四代目は”行信(ゆきのぶ)”、五代目は”信恩(のぶおき)”、六代目は”利幹(としとも)”、七代目は”利視(としみ)”です。
その中でも突出して茶道を愛していたのが八代藩主である”利雄(としかつ)”でした。年代でいうと1752年〜1779年の30年弱の治世でしたが、その茶道愛は大きく、城内に鋳物場(いものば)をわざわざ作り、三代目小泉氏を招いては自分で湯釜・茶釜を作っていたほどです。

しかし時代はいつでも酷なもので、ちょうどその頃に茶道において煎茶法(茶葉をお湯で煮出して抽出する方法)が広まり始めた事もあり、土瓶が台頭してきて茶釜や湯釜は少しずつ衰退し始めていました。そこで活躍したのが、八代目藩主利雄と一緒に釜を作っていた三代目小泉氏(小泉仁左衛門清尊/こいずみにざえもんきよたか)です。もともと注ぎ口やツル(持ち手)のない湯釜にそれらを付け、大きさも土瓶ほどの大きさにして手軽に使えるようにと試行錯誤の末、ようやく土瓶の代わりに用いることの出来る湯釜を考案します。これが南部鉄器の鉄瓶、いわゆる”南部鉄瓶”の始まりです。当時は”鉄薬鑵(てつやっかん)”という名前だったようですが、そこから”鉄薬鑵→手取り釜→鉄瓶”を変化していったそうです。
これをとても気に入った八代目藩主利雄は、幕府の重臣や各藩主への進物として送るようになります。これにより、また一気に”南部”の名前だけでなく”南部鉄器”や”南部鉄瓶”の名前が諸国に広がっていきました。

こうして、それまでは茶釜や湯釜などの専門品・工芸品が中心だった南部の鉄器に初めて”日用品”が登場したのでした。

 

明治時代の盛岡南部鉄器

長く続いた江戸時代も明治維新が起こり終わりを告げると、南部盛岡藩は戊辰戦争での大きなダメージから、1871年(明治4年)の廃藩置県布告の1年前に廃藩を願い出て事実上消滅しました。それに伴い歴代藩主に召し抱えられていた鋳物師達は、それまで藩から受けてきた特権を一瞬で失います。
しかし、1873年(明治6年)に初代岩手県令(今でいう県知事)が県立の勧業試験場を設立したのを皮切りに勧業を奨励し、物産会などを開催します。これも県主催の催しであり、6代目小泉氏”小泉仁左衛門清栄(こいずみにざえもんきよえ)”や21代目有坂氏”有坂富右衛門宣忠(ありさかとみえもんのぶただ)”も頻繁に出品し高い評価を得ました。

各種の展覧会や博覧会が国内各地で開催される様になるとそちらにも出品をし、明治天皇が全国各地を見回った、いわゆる明治天皇六代巡幸の内の2つの巡幸である1876年(明治9年)6月2日〜7月21日と1881年(明治14年)7月30日〜10月11日の”南部鉄瓶天覧”により、またたく間に全国にその名を知られるようになります。そして、1900年(明治33年)に”南部鉄瓶業組合”が設立されました。
その後、南部廷内に仮設された”鋳物場”で8代目小泉氏”小泉仁左衛門清信(こいずみにざえもんきよのぶ)”を初めとした鋳物師達が茶の湯釜をつくり、後の大正天皇の東北視察の際にそれを案内したことがきっかけとなり、それが全国紙に取り上げられ一層南部鉄器の評判が広まっていきます。

そして、南部鉄器をさらに発展させるため、1909年(明治42年)に”鉄瓶研究会”が、その翌年の1910年(明治43年)には”南部鉄瓶改良研究会”が発足します。

 

大正時代の盛岡南部鉄器

大正時代は14年余りの短い期間でしたので、南部鉄器の歴史もそこまで大きくは動いていません。
盛岡出身で現東京芸術大学(当時は東京美術学校)で鋳物の”蝋型”を学んだ松橋宗明氏が、南部家の援助を受けて”南部鋳金研究所(なんぶちゅうきんけんきゅうじょ)”を設立します。そこでは蝋型での鉄瓶の製造技法や、新しい着色技法を導入し研究を重ねていきました。そのかたわら、製造した者に責任と誇りを持たせるため、”銘”を付けることを奨めたりするなど、南部鉄器に新しい風潮をもたらしました。

 

昭和時代の盛岡南部鉄器

昭和時代は”戦争の時代”とよく言われるように、盛岡南部鉄器も混乱と衰退を余儀なくされます。しかし、今日の南部鉄器産業があるのもこの時代に強くたくましくその”魂”を燃やし続けたからかもしれません。詳しくは、「伝統工芸品として」で説明させて頂きます。

 

 


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