<水沢南部鉄器の歴史>

「水沢鋳物」として始まった水沢南部鉄器

水沢の鋳物が「南部鉄器」と認められるのは実はごく最近のことです。ザックリと説明すると、そもそも”南部藩”で作られた”鉄器”を南部鉄器と呼んでいたのに対し、水沢は”伊達仙台藩”で興った鉄鋳物であるからです。なので、”南部”藩の南部鉄器と区別するためあえて”水沢鋳物”と呼びます。

さて、現在の岩手県水沢地方で作られていた鋳物の歴史は南部鉄器よりも古く、910年近くさかのぼります。(2016年現在)
時代は平安時代、”清原氏の内輪のもめ事”と言われるいわゆる”後三年の役(後三年合戦ともいう)”が1083年〜1087年におこりました。誰もが一度は歴史の勉強で耳にしたことがあるのではないでしょうか?この後三年の役が終結を迎えると、勝者である”藤原清衡”は現在の岩手県奥州市江刺区岩谷堂に居を構え、戦後処理(戦後経営)を行うことになりました。この時に、近江国(現在の滋賀県)から鋳物師を招き入れ、鍋や釜などの生活用品を主に鋳造させました。鋳造などの製鉄を行う上でできる”鉱滓(こうさい/こうし)”が岩谷堂地域内の畑から出土したことで、これを裏付けています。
そしてこの後、1090年代中盤になると生活用品だけでなく寺社・仏閣の様々な部分の部品を作り、当時平安京に次ぐ日本第二の都市と言われた平泉を支える”平泉文化”の発展の一翼を担ったとされています。
そして、北上川の流れを移動するなどの環境の変化があり、現在の奥州市水沢区へ移動したことから”水沢鋳物”と呼ばれています。

 

室町時代〜戦国時代の水沢鋳物

平安時代の次の年号は鎌倉時代ですが、この頃の水沢鋳物は生産・需要が安定していて特に目立った動きはありませんが、次の室町時代になると少しずつその歴史が動き始めます。

1937年〜1379年のいわゆる永和年間に、鋳物師の”長田正頼(おさだまさより)”が鋳造業を営んでいた千葉家へ京都から移住しそこの後を継ぎます。その後苗字を長田から千葉とし1390年代初旬に鋳物師”千葉正頼”として領主”葛西氏”召し抱えられました。正頼は元来聖護院の修験者であったため鉱石から金属を抽出したり合金を作ったりする冶金や、鋳造技術に明るかったこともあり、彼によって鋳造の最新技術が伝えられ水沢鋳物の鋳造技術は発展していきました。

そして、戦国時代になると領主は葛西氏から”伊達氏”へと変わり、葛西氏元家臣の及川掃部頼重(おいかわかもんよりしげ)が江刺郡田茂山(現在の奥州市水沢区羽田町)に移住してきました。その後その息子である及川喜右衛門が千葉家に入門して鋳物師となりました。そして千葉家で修業を積んだ後に喜右衛門は水沢鋳物の確立に力を注ぎ、発展に大いに貢献したことから田茂山の”鋳物業祖”として知られています。
これを機に田茂山に鋳物師達は集まり鋳物の製造に尽力し、代々伊達仙台藩主の保護を受けさらに発展していきます。製造していたものは、当時の日用品である鍋や釜・鍬や鋤などの農耕具等でしたが、時は戦国時代ですのでその他にも軍備品の武器や大砲の弾なども製造し伊達仙台藩の軍備拡張にも貢献していました。この点でも、鉄瓶や湯釜などを鋳造していた盛岡南部鉄器とは違う歴史を辿った事がうかがえますね。言葉を今に置き換えれば、”趣味用品の盛岡・日用品の水沢”と言ったところでしょうか。。。ちょっと違うか・・・。

その後順調に発展していった水沢鋳物は1700年代初旬にその販路を伊達仙台藩領内だけでなくお隣の南部盛岡藩領にまで広がっていきます。その頃になると寺社仏閣用品にまで製品の幅は広がり、梵鐘(お寺の鐘)や磬子(きんす/お経を読む時に鳴らす鐘)・香炉も製造するようになり、1800年代初旬には工房の数は20以上になりました。

そして時代は幕末を経て次の新しい時代へと移ります。

 

近代の水沢鋳物 〜隆盛と衰退と試練〜

”ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開化の音がする”
そんな言葉に代表されるように、激動の幕末期が終わると文明開化が興りあらゆる環境が変化していきました。水沢鋳物も例外ではなくその波を受け、変化に対応出来た工房もあれば、対応しきれなかった工房もあります。そのような中で水沢鋳物は衰退を余儀なくされます。この変革期を乗り越えた工房は1890年(明治23年)の鉄道開通で東北本線が盛岡まで延びると、東北各地はもちろんのことなんと北海道まで販路を伸ばしました。そして1900年前後の明治時代中期には日用品の鋳物生産量は東北一となります。釜ひとつとってもごはん用の釜・鰯用の釜・塩用の釜など多種多様にあり、三陸や北海道などの世界に誇る漁場の人たちにとても愛され需要がとても多かった背景もあり、急速にその勢いを盛り返していくどころかさらに発展していきました。

そして、戦争期に突入します。
1914年(大正3年)の第一次世界大戦が始まると戦争特需により日本全体が好景気に包まれると、水沢鋳物でも全体的に需要が高まり、特に鉄瓶の需要が飛躍的に増えました。そこで登場したのが”電気モーター”による送風機です。固まった鉄を冷ますのに使われたことにより供給スピードも一気に上昇し、”鉄瓶黄金時代”が築き上がりました。

しかし、大正時代末期になると不況の波と共に、鉄より安価で軽量で扱いの簡単なアルミが普及し始め水沢鋳物製品は売れなくなるどころか価格も下落し、最大の危機を迎えます。その後の日中戦争や第二次世界大戦の戦争期では軍部の統制下に置かれ、原則鉄瓶の製造を禁止され戦争用品の製造に従事しました。その中でも1942年(昭和17年)には技術保存のため、6名の鋳物師に鉄瓶鋳造の許可が出たことが唯一の救いで、これがなければ今日の水沢南部鉄器はもしかすると存在し得なかったかもしれません。

1945年(昭和20年)、長きにわたる戦争期も終結を迎えましたが戦争期に軍備品を製造していた工場では設備はそのままだったため、その設備でまた日用品や鉄瓶の製造を始めます。幸か不幸か、戦争期に設備性能が発達した上に鋳造技術も発達したため機械での鋳造が可能になり、急激に近代化が進みました。こうして”鋳物の町 羽田”として見事な発展を遂げ水沢鋳物の暗黒の時代は終わりました・・・と言いたいところですが、まだまだ試練は続きます。

1947年(昭和22年)・1948年(昭和23年)に超大型の台風(キャサリンとアイオン)により大洪水となり水沢鋳物の全ての工場が浸水してしまいます。これにより長期にわたり生産が止まります。まだそれだけならば”ただの試練”で終わるところですが、その翌年の1949年(昭和24年)には羽田町中心部を総焼きにする大火事が起こり、鋳物工場の約8割が焼失する大災害に見舞われます。この3回の災害の復興には3年もの月日を要しました。

しかし、水沢鋳物の製造者達はめげません。当時の水沢市内の鋳物業者が約50社集まり、技術改善や生産方式見直しを図るため1954年(昭和29年)に”水沢鋳物工業協同組合”を発足させたのを皮切りに、盛岡南部鉄器と同様の”生型”による製法を本格的に導入し、比較的安価で一般の人にも親しみやすい花瓶や風鈴・灰皿なども製造されるようになりました。

そして、盛岡南部鉄器と共に伝統的工芸品に指定され、現代でも伝統を守りながらも革新していく水沢鋳物は多くの人に愛されています。

 

 


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