<南部鉄器の歴史>

製鉄技法とその歴史

南部鉄器はその名の如く鉄を主原料とし、それを様々な形に加工して製造する製鉄製品です。南部鉄器の歴史を紐解く上で、是非押さえておきたいのが鉄を主原料とした鉄製品の主な製造技法です。その製造技法には大きく分けて、「鍛造(鍛金)」「彫造(彫金)」「鋳造(鋳金)」の3つがあります。

「鍛造(鍛金)」とは、主に包丁や鍬・鋤、一昔前ならば刀などを製造する時に用いられる技法で、熱した鉄をハンマーや金づちなどで打って延ばしたり縮めたりする方法です。今日よく耳にする「打ち出し」はこの技法に分類され、鍋などの強度を上げ、表面積を多くすることにより熱まわりをよくする目的にも使用されています。
また、この技法は鉄瓶やすき焼き鍋などのツルの部分にも一部用いられており、南部鉄器を製造する上でも重要な役割を担っています。

次に、「彫造(彫金)」は刀剣や置物などによく用いられる技法で、鉄の塊を(その名の通り)彫って形を成型していく方法です。彫金には「たがね」と呼ばれる特殊な道具を使用します。分かりやすく例えるならば、金属用の彫刻刀といったところでしょうか。
「江戸彫金」と呼ばれるモノが有名で、小さく細かい加工が出来ることから装飾品に多く用いられています。

最後に「鋳造(鋳金)」ですが、これが南部鉄器の主な製造技法で簡単に言えば、「溶けた物質を型に流し込みそれを固めて製造する技法」でこのようにして製造されたものは大きく「鋳物(いもの)」と呼ばれ、南部鉄器の「鉄鋳物」の他に山形鋳物に代表される「銅鋳物」、工業製品によく用いられるアルミ鋳物・ステンレス鋳物・チタン鋳物などがあります。
鋳造技術の原点は狩猟に使う「鏃(矢尻・やじり)」で、粘土をよくこねて柔らかい粘土板を2つ作ったら、その粘土板の片方に石の鏃を半分埋め込んで形をとり、もう片方に先に形をとった反対側を押しつけて形をとります。するとそれぞれ半分ずつの形が写し出されるので2枚の粘土板を合わせるともとの鏃とほぼ同じ形の空洞が出来ます。そこに注ぎ口を作って溶けた物質を流し込み、固まったら型を壊し注ぎ口を切り離せば鋳造の鏃の完成です。この工程は数千年経った今でも、基本的に変わってはいません。

鋳造の歴史は古く、紀元前3500年程までさかのぼります。現在のイラク周辺で栄えたメソポタミア文明の頃、その地域で発生したと言われています。それから約3000年後の紀元前4世紀から紀元3世紀頃の弥生時代にその多くは中国や朝鮮半島を通り、日本に伝わったとされています。
とは言えこの頃の鋳造材料は主に「銅」で、鉄を溶かして製造する鋳鉄が生まれたのはメソポタミア文明の頃からさらに数千年後の事になります。

 

東北地方での製鉄

本格的に日本で鉄の製産が始まったのは3世紀から7世紀の頃(なんと古墳時代!)ですが、東北地方では遺跡から歴史を紐解くとそれとほぼ同じかやや遅れての7世紀に入ってから大規模な製産が始まったとされています。(遺跡は現在の福島県相馬郡)
また、岩手県の熊堂古墳をはじめとして東北の主に岩手県の古墳からは砂鉄を主原料とした ”蕨手刀(わらびてとう)” の出土が全国的に見ても秀でて多く、一時は岩手県がその中心地とされる説もあったくらいです。

 

たたら製鉄(たたら吹き)と鋳物職人

「たたら」とは、身体全体を使って体重をかけて使用する大型の鞴(ふいご=いわゆる送風ポンプ)のことで、これを用いて大量の風を送り木炭を一気に燃焼させて炉の中の温度を上げ、砂鉄を溶かす技術を「たたら製鉄」または「たたら吹き」といいます。江戸時代頃には「たたら=製鉄」を意味し、製鉄とは切っても切れない技術でした。
その頃のたたら製鉄は、不眠不休で3〜4日間砂鉄と木炭を交互に入れ銑鉄(せんてつ=鉄鉱を溶解炉で溶かして精製される炭素を含む鉄素材で現代の南部鉄器でも使用している)等を製産していました。その3〜4日間で投入される量は、砂鉄10トンに対し木炭も10トンとその量だけ見てもとても大がかりな作業な事がうかがえます。なんとこの作業を年間60回近くも行っていたというからさらに驚きです。

そして、たたら製鉄然りその技術を今日まで伝えた職人についても紹介します。
鋳物職人は ”鋳物師” と呼ばれ彼らは律令制の下に組織化されていましたが、時が経つにつれてその組織は解消されてしまいますが、それぞれ地方豪族や寺院のもとで護られ鋳造を続けて行くこととなります。ちなみにこの「鋳物師」、”いものし” と読む方が多数だとは思いますが実はこれ「いもじ」と読みます。「いものし→いもんじ→いもじ」になったのかなと勝手に推測はしています。
もちろん鋳物師の中には、豪族や寺院などから庇護を受けずに生活用品を製造しながら転々とする鋳物師もいました。彼らは全国を歩き、その土地その土地で砂鉄を取っては製鉄をして鉄器を造って売るという生活をしていましたが、やがて一つの集落を形成するようになります。岩手県は鉄山も多く消費地も近くにあったことから自然とその集落多くなっていきました。
しかしながら岩手県内でその集落が現存しているのは、盛岡水沢のみとなっています。

 

 


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